2011年6月26日

なにを探しているのか

と、書いてみたが、べつに何かを探しているわけではない。

なにをつくろうとしているのか

と、問うてみても、ぴんと来ない。


なにを・・・
が違うと言うことだ。

べつに、なにでも良いのだ。


どう「ある」か、がダイジであって、その帰結はダイジではない。
どう考え、どう行動するかがダイジであって、それがどう結実するかは、まあ、時の運。


もちろん、小さな喜びは大歓迎である。
子どもたちの驚きの声、歓声、応援の言葉。
親たちの決意の言葉。



今日は若くして逝った従兄弟の一周忌。
明日夜は、坂井市の東十郷幼稚園・小学校PTA文化講演会、である。

2011年6月21日

「大人と話そう」神奈川県立希望ヶ丘高校3年生

神奈川県立希望ヶ丘高校には、岩田晴之さんという吹奏楽の鬼がいる。
いや、ふだんは柔和な先生なのだけれど、きっと鬼に決まってる。
そうでなきゃ、逗子高校時代にあんなに吹奏楽が強かったわけがない(笑)

それはともかく。
彼の担当する3年生の総合学習の時間のテーマは「大人と話そう」
彼がいろんな「面白い」大人を連れてくるから、そのヒトと話してみよう、というもの。
もちろん生徒たちもただ聞くだけではすまない。

事前の連絡から当日の運営、お土産準備にお見送り。
いろいろなことを体験することになる。

一人は事前の連絡で「連絡内容が不親切」と私に怒られ(笑)、一人は頑張って発言したのに「考えてないな」と返される。そう、これが大人と話すと言うことなのだ。


もちろん授業自体は楽しんでもらった、と思う。
なぜか女生徒が9割なのだけれど、授業後のランチも含めて、楽しい2時間でした。

2011年6月20日

PricelessでCost lessな父の日の夜

昨日の夕食は、次女・三女と3人で食べた。

途中で「今日父の日だね」との話もあったが、会話はさらっと流れ、まあワイワイと。

そして終わり頃、次女が急に箸袋だかお神籤だかという細く巻いたノートの切れ端を「はい、父の日」と。
すかさず三女も「私もあるんだ~」と4つ折りの、やはりノートをちぎったお手紙を。

食事後、部屋でゆっくり読んだ。


次女の手紙は、ものすごい悪筆で、途中から漢字がなくなり、さらにへろへろに。
そのまま読み進めたら、
「私が今回学んだことは、横がきを左手でかくと、たとえボールペンであろうとも、手がよごれるということ」
「父さんもきをつけて」
だと。
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あはは。そういうことですか。なんだかわからないけど努力賞だね。


三女は最近、ロゴのデザインに凝っている。
Thank you!とかが、見事にデザインされているのであった。
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手紙の内容は、自分の近況を述べる日記みたいだったけど(笑)、文章としてはとてもしっかりとしていて、感心したのであった。字も諦念で綺麗だしね。
彼女の美意識が、よく現れている。


夜、携帯電話を見たら、長女からも長文のメールが入っていた。
携帯に来ていると言うことは、携帯で打ったのであろう。
さすがに2ストロークの鬼である。これくらいの長文、ものともしない。

「父の日は何したら良いか分からなーい」
から始まり、
「これからもちょくちょく家に帰るけれどよろしく☆」
で終わり、メールの題名は
「支離滅裂\(^_^)/」
だった。


誕生日もそうだけれど、彼女らから私へのプレゼントは、まことにPricelessでCost less。
ダイジにとっておきましょう。

2011年5月29日

新潟県立加茂高校で授業とPTA講演

7時過ぎの電車に乗って、東京駅へ。
上越新幹線で終点新潟の一つ手前が燕三条だ。

そこから車で20分ほどのところに新潟県立加茂高校がある。
天体観測ドームが輝く高校だ。地元加茂市やお隣の三条市から数百名が通う。

3年生向けに授業を45分、そしてPTA総会前の講演を90分やらせて頂いた。
校長の林先生らが、昨夏、福井で行われたPTA北信越大会に来られていたのが縁である。

PTA向け講演では、そのときにお話しした「高校における、生徒同士の学び合いの場」について、と、『ヒマと貧乏とお手伝い』について、を題材とした。

途中、新しい試みでばたついたところもあったし、最後のQ&Aももっと盛り上げたかったけれど、まあ、これで良しとしましょう。
あとで回収したアンケートには、多くのコメントを寄せて頂いたので。

終了後、少し待って林先生やPTA前会長さんとお話をし、また燕三条から帰宅した。
door to doorで4時間ほど。

それなりに疲れたかな。でも車中、アンケートコメント見て、ちょっと元気になった(笑)


参加者の主なコメント

・自分で決める力をどうつけるのか、明日から今日の講演を生かしてみたいと思いました(小1の担任教員の立場として&保護者として)

・私自身子どもの頃にお手伝いをよくやらされ嫌いでしたが、親になってからはその大切さに気がつき、子どもには少しやらせました。やはりやらせて良かったと思いました。

・男の子3人ですが洗濯ものも干させます。もっと上手に使っていこうと思いました。

・ジジババ対策が大変ですが、今日から、できることから実践してみようと思います。

2011年5月23日

15家族以上が必要だった。現人類の東進物語

アフリカに発祥した人類は3~4度に渡って「出アフリカ」を果たした。

昔の言い方で言うところの原人として、旧人として、そして新人として。
新人=ホモサピエンスの元は、東アフリカにいたわずか数千人。
そのうちたった数百人が、紅海をアラビア半島に渡った。

陸ではなく、おそらくは海を渡ったと、推定されている。
それが6万年前のこと。

それが北上してヨーロッパに拡がり、東へ海沿いを伝ってアジアへ拡がった。

問題はその先だ。

それでは北アメリカにも、オーストラリアにも到達できない。
北アメリカとの間にはベーリング海が、オーストラリアにはアラフラ海があるからだ。

それを後押ししたのは、氷河期だった。
氷河期には陸氷が増えて海水面が下がる。5万年前の大氷河期にオーストラリアとニューギニア島も繋がった、1万年前にはベーリング海は陸橋となってシベリアと北アメリカが繋がった。

でも、そこを渡るのは、まったくもって簡単ではない。
2000キロのベーリング陸橋を超えてもそこには北アメリカを厚く覆う大氷床がその行く手を阻んだ。
ニューギニア島は繋がっても、そこまではまだ海が数百キロ存在していた。


でも、渡ったヒトたちがいた。
わずかな氷の回廊をとおり、そして船を作って。

その数は、いちどきに15家族以上。
9家族以下では遺伝的多様性が小さすぎ、すぐ消滅の憂き目に遭う。
安定できるのは15家族以上。

ということは、親戚関係でもなくそれだけの集団がまとまって行動していたということ。
異常に厳しい環境下を、東へと進むべく。

ゆえに、高度なコミュニケーション能力を持っていたのであろう、とも推測されている。

決して導くもののない、未知への旅を、いったいいくつの集団がチャレンジし、敗れ去ったのだろう。
そのときリーダーは、血縁以外のなにを糧に、東進を推進し続けたのだろうか。


われら現人類のほとんどは、紅海を越えて出アフリカを果たしたたった数百人の末裔であり、アメリカ大陸やオーストラリアの民(ネイティブアメリカン、アボリジニ)たちは、さらに少数の末裔であった。

未知へと挑む、その気概と力を、失ってはならない。
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