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第16号 MBAに学ぶ(後編)

The Prince of Wales

イギリスの皇太子は、一般にPrince of Wales (ウエールズ国の皇太子)と呼ばれ(故ダイアナ妃はPrincess of Wales)、皇太子即位式は、必ずWalesのカーナヴォン城(Caernarfon Castle)で行われる。

これはいったい何故なのだろうか。何故素直にPrince of BritainやPrince of UKでなく、一地方の皇太子と名乗るのか。


ロンドンから北西に数百キロ、ウエールズは今も国という名称を持ち、首都を持つ。長年の戦いの末、イングランドに併合された後も、その独自の文化を保ち続けてきた。

ウエールズに車で近づくと、交通標識に見知らぬ言葉が添えられているのに気づく。アルファベットではあるが、まったく読めないものだ。例えば「End」が「Diwedd」だったりする。

それがケルト人古来の言葉の一つ、ウエールズ語だ。

ウエールズに近づくにつれ、ウエールズ語表記のサイズは大きくなり、主従が逆転し、英語の表記サイズがどんどん小さくなる。近年、独自文化の復権のために、一部の学校教育では「ウエールズ語で教える」ことすら認められているという。


さて、Prince of Walesの話だ。

これはウエールズを征服したイングランドの王、エドワード1世によるウエールズ融和策の一部だったのだ。滅ぼされ、血が絶えたウエールズ王家であったが、征服者であるエドワード1世は王妃エリナーの懐妊を知り、カーナヴォン城で生まれたその子を、ウエールズ皇太子=英国皇太子とした。ウエールズをそれほど重要な地と内外に示したわけだ。


イギリスはこの手の話が多い。数百年にわたる戦いにより、国を創り上げてきたその歴史がここそこに垣間見える。

スコットランドの人々は自分たちのことを決してBritish(英国人)は呼ばない。自分たちはScotts(スコットランド人)だと言う。INSEADのスコットランド人も、電車の中で出会った年配のスコットランド人も、胸を張ってそう言っていた。

ウエールズの人だって自らの国籍欄にWelsh(ウエールズ人)と書いてしまう。本当はUnited Kingdom (UK)※1、なのだけれど・・・

イギリスはその正式名称どおり「連合王国」なのだ。日本のような(ほぼ)単一民族でもないし、単純な単一国家でもない。もっともっと複雑で、血で血を洗う歴史を背負った国なのだ。

The War

INSEADの友人たちは、みなそれぞれの事情と国情、使命を背負っている。

私の友人としてサウジアラビア人もいれば、イスラエル人、ヨルダン人、イラン人、もいた。数年前にミサイルを撃ち込んだ側と撃ち込まれた側だ。

実際、イスラエル人の友人は、湾岸戦争のとき数百メートル先にミサイルが落ち、大音響とともに家の窓ガラスの殆どが割れ落ちたという。たまたま地下室にいた奥さん(妊娠8ヶ月)から「大きな音がしたけど、どうしたの?」と聞かれて彼は、心配させまいと「いや、なんでもないよ」と精一杯の平静さで答えた、とか。

私とイスラエル人は友達、私とヨルダン人は友達、でも隣国でありながら彼らは決して視線を合わせようとはせず、ぴりぴりした平穏を保っていた。


旧ユーゴスラビア出身の友人は、自国で夫婦共々医師でありながら自国に見切りをつけ、必死の思いで出国しINSEADの生徒となった。彼はある授業で東欧諸国に関する紹介を任され、みなの前でプレゼンテーションをした。

東欧の地政学的ユニークさ、人々の暮らし、そしてボスニア紛争、経済状況・・・20分の演説の間、自国の惨状に触れるにつれ彼は激高し、ついに最後、こう言い放った。

「君たちには決して分からない。」

「人は、パンのために人を殺せるんだ!」


私たち生徒の一人として言葉もなく、ただ、深い悲しみとともに頭を垂れた。

紛争中、凶弾に倒れたボスニア市民は2万人とも言われている。オリンピックのメインスタジアムは破壊され、そのグラウンドは当時、数千の白い墓で埋め尽くされていた。

日本に住んでいては、感じることのない現実の「戦争」がINSEADでは身近に存在した。

日本に生まれ育ったことを幸せに思いながらも、日本では風化するだけの戦争の恐ろしさを体感できた(させられた)ことも、INSEADでの最大の学びではなかっただろうか。


最後に蒙古斑についての注意をひとつ。文字通り蒙古斑(おしり・背中の青アザ)はアジア系赤ん坊特有のものだ。欧米の病院では気をつけよう。

医者でも殆どその存在を知らないので、「虐待の証拠」とされて子どもは即隔離、親は逮捕、なんて笑い話(笑えない)もある。

私の友人がフランスで出産したときは、その子の蒙古斑を見に、病院中の医者・学生が集まったとか。


さて、これくらいで、INSEADを中心としたヨーロッパ紀行を終えよう。大変なこともあったが、楽しいこと、が殆どだった。いろいろな場所で普段会えない多くの人に会い、風景を見、美術を堪能した。

それらは、私の人生を深めるという意味では最高の1年半だったと、思う。

皆さんも、如何?

※2 いわゆるヒートショック

初出:CAREERINQ. 2006/04/28

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