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第29号 教えず導く(大学生編) 

質疑応答というモノ

これも数年前のある日、東京大学を訪れた。これまた大学院生へのゲストスピーカーとして。

皆の聞く態度や姿勢はOK。皆、真剣に耳を傾けている。


締め括りにミニケーススタディとして「大学生へのPC販売 倍増プラン」なるものを、数人ずつのチームに分かれ、数十分、考えて貰う。

最後の40分はそのチーム別発表会。各チーム、素早く数枚のパワーポイント資料まで作っている。

何チームかは発表内容も良かった。

でも・・・質疑応答がなっていない。これじゃあ、無意味、無価値。


この講座では恒例となっているらしく、学生自身が仕切って、発表・質疑応答、と進めている。教授や講師は口を出さない「自主性を重んじた」運営らしい。

「誰か質問ありませんか」「はい」「どうぞ」

「このプランではXXというリスクは考慮されたのですか?」「YYはZZだという議論はしました」

「他に質問はありませんか」「はい」「どうぞ」・・・


2チーム目で堪忍袋の緒が切れた。

「いいですか?」「どうぞ」

こんな質疑応答、なんの価値もない。質問する方もちゃんとした質問になっていないし、答える方もちゃんと答えていない。

質問自体が体(てい)を為していないのに、それになんで、ただ答えようとするのか。

質問者も意図があるならそれをなぜハッキリ言わないのか。

意図と違う答えが返ってきたなら、なぜそこを突っ込まないのか。YYはZZだって言われてそれでいいの? XXリスクの答えになって無いじゃない。その前にXXリスクを考慮したか、って何のために聞きたいの? それを考慮したら結論が違うじゃないのって言いたいんでしょ。


議論はなんのためにするのか? 質疑応答はただの点数(クラスでの発言点とか)稼ぎでもないし、勝ち負けを決めるためのdebateでもない。

よりよい結論を導くための、「発展的議論」にこそ価値があるだ。

良い問いは答えを含む

正しく問い、正しく答えよ。

特に問いは大事。キチンと問うことさえできれば、答えは必ず明らかになる。答えをズバリ当てるのではなく、答えの性質が明らかになる問いがよい問いなのだ。

ある課題に対しての本当の答えがアルファベットの「K」だったとしよう。そこに「何㎝ですか?」という問いは、答えに辿り着かない問いだ。

「文字か図形か」とか「何文字か」とかは良い問い。問い自体に、実は答え(の一部や基本属性)が含まれている。

さて質疑応答をやり直そう!


質問者はもう一回、質問をし直すように。意図や意見を明確に、そしてそれを軸として明確な質問を。

それに対して、回答者は逃げずに、正面から答えるように。XXか否かと問われて、ZZと思いましたなどと決して答えないように。

さあ、どうぞ。


もちろんこんな的確な質疑応答がすぐに出来たら苦労はない。でも、実はそんなに難しいことでもない。だって正論なのだから。

要は慣れの問題だ。慣れてしまえば、これが当たり前になる。多くの組織に蔓延(はびこ)る、曖昧で玉虫色の「質疑応答もどき」が気持ち悪くてしょうがなくなる。

そうなると普通の組織には居辛くなるかもしれない。「和」を乱す者として・・・。

そしたら普通でない組織に移るか、新しい組織を創れば良いではないか。そんな「普通の組織」は早晩滅びるであろうから。


学生諸君、心の準備は良いか? 正しく問い、答える訓練は出来ているか?

初出:CAREERINQ. 2007/06/01

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